藤圭子 Huji Keiko
1951年7月5日、浪曲師の父と三味線奏者の母との間に、三人兄妹の末っ子として、岩手県一関市で生まれ、北海道旭川市で育ちました。出生名は阿部純子です。一家の生活は苦しく、北海道や東北一帯を旅回りして唄い、生活の糧を得ていました。彼女もまた家計を支えるために、10歳から両親と共に唄うようになりました。雪の降りしきる厳寒の冬は、膝まで雪に埋もれながら何時間も歩き、宿がない時には、お堂の中で肩を寄せ合って眠りに就きました。岩見沢のヘルスセンターで唄っているところを作曲家の故・八洲秀章氏に見出され、彼女の才能に惚れ込んだ氏の勧めで上京しました。東京の亀戸・錦糸町界隈の夜の街で流しの歌手をしていましたが、作詞/作曲家の故・石坂まさを氏と出会い、1969年にRCAビクターから「新宿の女」を唄ってデビューしました。翌70年に発売された「圭子の夢は夜ひらく」は代表曲となり、その年のNHK紅白歌合戦に出場しました。折りしも時代は高度成長期のまっただ中、経済の急激な膨張によって生じた格差が拡大し、社会が構造的にひずんで軋む時代で、暗い情念を含んだ彼女の声は、”怨歌の星を背負った宿命の少女”として、川端康成や五木寛之などの知識人や大衆の心を捉えました。翌71年には歌手の前川清と結婚しましたが、1年で破綻し、両親もまた金銭的な理由から衝突し離婚してしまいました。1974年に発売された「演歌全集 藤 圭子」は演歌歌手としての生命を奪いました。8枚組LP盤に演歌100曲を収録するという石坂まさを氏が発案した馬鹿げた企画は、過酷な録音日程を強いて彼女から声を奪いました。声帯結節と診断された彼女は手術を受けましたが、かっての厚みのあるざらざらした質感の唯一無二の歌声は失われてしまったのです。3ヶ月後には復帰しましたが、80年代への時代の変化も忍び寄っていました。1979年に引退を表明し渡米しましたが、1981年にCBSソニーからシングル曲「螢火」を藤圭似子の名前で発表しました。1982年にニューヨークで知り合った宇多田照實氏と結婚し、女の子を出産しました。圭子は家族の生計を支えるため、時々日本に戻っては地方回りをして稼ぎ、また米国に戻るという生活をしていました。1993年に照實氏と共にU3ミュージックを設立し、娘は宇多田ヒカルとして1998年にシングル曲「Automatic」でデビューし、翌99年にアルバム「First Love」を発売し大成功を収めました。ここ数年、彼女の消息は不明でしたが、TVから突然で衝撃の訃報が流れました。2013年8月22日早朝に西新宿にある高層マンションの13階から投身自殺をしたのです。
藤圭子 - 新宿の女
意外と明るく乾いた歌声だと分かります。
意外と明るく乾いた歌声だと分かります。
藤圭子
[収録曲]
[収録曲]
- 新宿の女
- 女のブルース
- 圭子の夢は夜ひらく
- 命預けます
- 女は恋に生きてゆく
- 京都から博多まで
- 別れの旅
- 明日から私は
- 私は京都へ帰ります
- はしご酒
- 京都ブルース
- 生きてるだけの女
- 面影平野
- 赤坂の夜は更けて
- 暗い港のブルース
藤圭子 - 圭子の夢は夜ひらく
この3年前に薗まりが歌ってヒットさせた曲です。違和感を感じていた石坂まさを氏は、新しく詞を書き下ろしました。
この3年前に薗まりが歌ってヒットさせた曲です。違和感を感じていた石坂まさを氏は、新しく詞を書き下ろしました。
藤圭子 - 面影平野
藤圭子 - 冷たい月 - 泣かないで
1996年9月に藤圭子 with Cubic U名義で発表したものです。コーラスを付けているのは宇多田ヒカルです。出来が悪く、曲も歌もコーラスも何をやっているのやら。
1996年9月に藤圭子 with Cubic U名義で発表したものです。コーラスを付けているのは宇多田ヒカルです。出来が悪く、曲も歌もコーラスも何をやっているのやら。