テリー・ギルキーソン Terry Gilkyson
ハミルトン・ヘンリー・ギルキーソン( Hamilton Henry Gilkyson )は、1916年6月17日にペンシルヴァニア州フェニックスヴィルで生まれました。ペンシルヴァニア大学に進学しましたが、2年ほどで中退しアリゾナ州タスコンへ移って牧場で働き、それから軍隊に入り、第二次世界大戦に従軍しました。除隊後はペンシルヴァニアに舞い戻り、父の保険業を手伝いながら曲を作っていました。1947年に結婚すると、フォーク歌手として身を立てるためにカルフォルニアに出て、駐留米軍放送の唯一の歌手として、週1回のラジオの番組を持つようになりました。1949年に「Cry Of The Wild Goose」を初録音しました。この曲は1950年にフランキー・レイン( Frankie Laine )が歌って全米1位のヒットにし、テリーは注目されて、1950年代初頭にウィーヴァーズに参加して活動を始めました。その後、ラジオ番組でイージー・ライダーズを組んでいたリチャード・デア( Richard Dehr )とフランク・ミラー( Frank Miller )に出会い、意気投合して3人でバンドを結成しました。彼らの作った「Memories Are Made Of This」をディーン・マーティン( Dean Martin )が気に入って、彼らをバック・コーラスにして録音し、1956年に全米1位のヒットにしました。1957年には彼ら自身の歌う「Marianne」が全米5位のヒットになりました。テリー・ギルキーソン&イージー・ライダーズは「Everybody Loves Saturday Night」、「The Girl In The Wood」、「Remember The Alamo」など、数多くの曲を作りました。1960年にその中の一曲「Greenfields」をブラザーズ・フォアが歌い、全米2位のヒットにしました。この曲は後にキングストン・トリオ、ゲイル・ストーム、ハリー・ベラフォンテ、ドリス・デイ、バール・アイヴス、ニュー・クリスティ・ミンストレルズなど数多くのアーティスト達が追演しています。1927年に録音した西インド諸島の伝承歌「Tell The Captain」は、1966年にザ・ビーチ・ボーイズが「Sloop John B」と改題して歌い、全米3位のヒットになりました。フランク・ミラーが離脱した後は、バーニー・アームストロング、カースン・バークスを加えて4人組として活動を続けました。1960年代後半になるとテリーはバンドを離れ、ウォルト・ディズニー・スタジオで働き始め、1960年に「「Swiss Family Robins」、1970年「The Aristocats」などの映画音楽や、TV番組『The Wonderful World Of Disney』の曲を書きました。1968年に上映された映画『The Jungle Book』の中の曲「The Bear Necessities」は、アカデミー賞の推薦候補枠に指名されました。テリーは、その後引退し、ニュー・メキシコ州サンタ・フェで暮らしました。1999年10月15日にオースティンにいる娘エリザを訪ねていた時に死去しました。享年83歳でした。
ナルシソ・イエペス、ドリス・デイ、ジーン・ヴィンセント、ジョニー・マティス、ハリー・ベラフォンテ、テリー・ギルキーソン、ジョニー・レイ、バディ・ホリー・アンド・ザ・クリケッツ、フランキー・レイン、マーティ・ロビンス
[収録曲]
[収録曲]
- ショー・ジョー・ジ
- チャ・チャ・チャは素晴らしい
- 慕情
- アンチェインド
- テキサスの黄色いバラ
- ロック・アラウンド・ザ・クロック
- オンリー・ユー
- セレソ・ローサ
- 誇り高き男
- ケ・セラ・セラ
- ビー・バップ・ア・ルーラ
- お目あてちがい
- バナナ・ボート
- マリアンヌ
- 禁じられた遊び
- 雨に歩けば
- ザットル・ビー・ザ・デイ (いつの日か)
- O.K.牧場の決闘
- 白いスポーツコート
- フジヤマ・ママ
- 恋のチャンス
- カナダの夕陽
- 砂に書いたラブレター
- 起きろよスージー
- タミー
- 河は呼んでる
- 死ぬほど愛して
- プア・リトル・フール
- トム・ドゥーリー
- エデンの東
Terry Gilkyson & The Easy Riders - Marianne
Terry Gilkyson & The Easy Riders - Green Fields
Terry Gilkyson - Goodbye Chiquita